ニーチェになりたい男のたわごと

日々の日常の事とか

結局何事も、ケースバイケース

どうも、超人太郎です。

 

時々、「優しいことと、我慢するのは同じことではないだろうか?」となんか感覚が麻痺したような疑問が浮かぶことがあります。

 

 

結論から言うと、自分自身のことをもっと良く大事にしなくてはならいと思うようになったと言う話です。

 

他人には優しくして、当の自分は我慢するというのは可笑しな話です。

 

勿論、人に優しく接するというのは良いことだとは思います。

ですが人に優しく接したことで、それが自分自身の心がすり減ってしまうような優しさでしかないならば、僕が思うにそんなものは優しさと呼べるようなものでは無いと言えると思います。

 

優しさというのは、本来は親身に人に寄り添ったことで湧き上がってくる「真心」の事だと思います。

でも、人に優しくしたことで心がすり減ってしまうような感覚があるのならば、それは「真心」からきた優しさでは無いでしょう。

それは「自己犠牲とは素晴らしいものだと言う虚構の理念」に縛られてしまっているから生じた、ある種の自傷行為にも似た自己否定だと思います。

 

一つのケースとしてお話します。

例えば、相手と自分は意見が違うとします。

そこを優しさのつもりで相手を立てる為に、自分はグッと意見を言うのを我慢した。

 

僕が思うにこのようなケースは、自己否定でしかないと思います。

だって自分の意見を言うのを我慢するというのは、その意見には価値が無いというのと何ら変わらないことだと言えるから。

そして自分の意見に価値が無いというのは、その場その場の自分という存在意義、もしくは役割を否定し、理屈的に言えば自己否定をしてしまっているのと同じことです。

なにより自分の意見を言わないことは勿体ない事です。

 

そもそも心がすり減るような感覚のある優しさの時点で、「真心」からの優しさではなく、心のどこかで見返りを求めているからこそすり減ってしまうのだと思います。

そういうことなのなら、最初からそんな優しさなんて無い方が良い。

あなたの心が疲れてしまいます。

 

何よりもまずは、自分に優しくしましょう。

 

だからと言って他人を蔑ろにして良いわけでもありません。

結局何事も、ケースバイケースなのかもしれません。

 

でもこれだけは一つ言えます

「あなたの心が壊れる前に、疲れたら休んでしまいましょう」

 

それではこの辺で終わりにさせて頂きます。

ここまで読んで頂きありがとうございました。